東北学院幼稚園

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年頭所感

2013年01月01日

 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない


 
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幼稚園長  佐々木 勝彦

  
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。」(ヨハネ3・1-8)。
 場面は夜です。その当時、民衆に大きな影響力をもっていたファリサイ派の人びとは、イエスを厳しく批判していました。彼らの目から見ると、イエスはあまりに自由奔放に見えたからです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣言し、彼らの重視する宗教的・社会的慣習を無視する男。彼らの蔑視する最下層の人間とつきあい、食事を共にする男、一体この男は何者なのか。彼らにとってイエスは社会を混乱させる危険人物でしかありませんでした。そのイエスに会うには、やはり夜しかありません。周りの目と評判が気になるからです。
 それにしてもニコデモは、なぜ、リスクを冒してイエスのもとを訪れたのでしょうか。それは、どうしても確かめずにいられなかったことがあったからです。イエスの言葉と振る舞いを知れば知るほど、ただ者ではないと感じたからです。もしかしたら、約束された神の子かもしれないとの疑念が湧いてきたからです。しかし結局、ニコデモは、満足する答えを得られずに、そのまま帰ってしまいました。せっかくイエスに会いながら、二人の間に信頼関係は生まれませんでした。
 彼は何に躓いたのでしょうか。それは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの言葉です。「新たに生まれる」にはどうすればよいのか。それがわからなかったのです。イエスは、「肉から生まれたものは肉である」と言います。肉とは、自分の世界に留まり続ける人間、自らを創造者のまえに開き、神の言葉を聞くことを忘れた人間のことです。この閉ざされた世界に新風を送り、再び生気を与えるのが、霊です。霊の息吹に触れずに「神の国」を見ることはできません。
 昨年11月10日、東北学院幼稚園は創立五十周年記念コンサートを開催し、盛会のうちに終了することができました。その準備段階において、改めて発見したことが沢山あります。一番驚いたのは、最初のヴィジョンの中に、幼稚園・小学校から大学までという一貫教育の構想があったことです。この構想を現在の地で実現することは無理だとしても、東北学院全体として、このままでよいのでしょうか。キリスト教保育・教育を語るのであれば、神の国について大いに語り、夢見る人びとが必要です。教育とは、見えるものを通して見えないものを実現しようとする営みだからです。神の国を見失ったキリスト教保育・教育は、もはやキリスト教保育・教育ではありません。
 幼稚園、それは、15年後に何が起こるのか教えてくれる現場です。幼稚園の直面している諸問題は、いずれ高等教育機関も解決しなければならない諸課題です。
 まだまだ続く少子化の傾向、ますます強まる幼保一体化の流れ、保護者の生活および職業的環境の激変、等々いずれも幼稚園が今現在、苦闘している課題です。これらの諸問題に対処するには、当面の応急処置のみならず、中長期の見通しと計画が必要です。たしかにこれは大変な仕事ですが、意識を変えることにより、なんとか前進することが可能です。
 ところがいくら外的環境を整えても解決できない問題があります。それは「神の国」を見るために必要な霊の問題です。イエス・キリストとの信頼関係が生まれないままに元の生活を続けても、「霊の人」は生まれません。「霊の欠如」は保育と教育を内側からむしばんでいきます。気づかぬうちに、形骸化を招きます。しかし、霊の風が吹くとき、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして節制」(ガラテヤ5・22)が生まれる、と聖書は約束しています。これこそが、東北学院幼稚園の目指すべき具体的な教育目標です。幼稚園に、いや東北学院全体に、霊の風が吹き、保育と教育の生命が蘇えることを願って止みません。